2007年 3月号
一、健康危機、経営危機からの脱出
いつも大変お世話になりありがとうございます。
先月のリミット通信で、末期の肺結核で医者から見捨てられたどん底から、最初は地を這うような経営から始め、業界大手会社を追いかける戦略を一つ一つクリアしてリミットの歴史を築いてきたことを書きました。ここであえて言うと、戦略などは誰でも考えれば策定することができます。その戦略を具体化する行動になると、戦術立案も含めて障害が多く起きて計画通りにならないのが世の中の常です。ところが私の場合、次々と自ずと道が拓けてきたのです。何故道が拓けたか、その理由がわからないことが多くありますが、それらすべてが今あることの大きな基となっています。
私の人生で一番大きな問題は肺結核の末期症状からの脱出です。二十五才から現在まで肺結核と闘い続けてきました。今でも年に何回か吐血します。一度壊れた肺は元には返りません。長年の歴史の中で空いた穴を石灰化させるだけです。壊れた肺を上手に使っているだけです。使い方を間違えると壊してしまいます。こんなこともありました。四国の徳島市から室戸岬に向かって約一時間で、日和佐町の二十三番薬王寺に着きます。その石段を上がっているときに吐血が始まりました。私は吐血で死ぬことは無いと経験から知っています。吐血で死ぬのは吐血を止めようとして喉に血を詰まらせて呼吸ができなくなり窒息するのです。気楽に止まるまで出し続ければ死ぬことはありません。そして吐血を止めるには血圧を上げないことです。血圧を安定するには心の安定が一番です。心の安定を保つために南無大師遍照金剛を唱え続けながら血圧を上げないようにしました。そして高知市室戸岬のお寺を巡拝し、福山まで約四百キロを吐血した日に帰ってきました。吐血したことは誰にも言いませんでした。夜の晩酌も少し飲みましたので、家内も知りません。晩酌も少しすれば血圧が下がります。
もし吐血した時、医者にかかったなら会社にも連絡があり大きな問題になります。対外的に知れれば会社の信用にも大きく影響をしてきます。対処の仕方で運命は大きく変わります。私は早い時期からコンピュータを使って在宅勤務を基本にしていたので体調が悪くても皆さんに知られないようにすることができました。対外的には知られなくても、私自身は肺結核に対して猛烈に戦い続けていました。
この状況の中で、会社を救ったのは、銀行から「泣き言は言わず、返済計画を持ってこい」と怒られたことです。この一言が現在まで会社を維持させ発展させたのです。それ以後このことを忘れず返済計画を持って銀行に通い、強い言葉で説明しました。吐血して血を見れば誰でも動転します。動転して苦しい顔をするのが普通の人です。体調も悪いし、資金も苦しいと泣き言ばかりを言っていたら、絶対に金融機関から資金は出して貰えません。苦しいときほど、苦しくない顔をして強い言葉で金融機関に説明しなくてはなりません。強い言葉を出し続ければ自己を覚醒させ、強い人間に生まれ変わります銀行に行くとき、自信に満ちた顔つきの練習を鏡の前でしてよく行きました。どんなに苦しくても、苦しい顔をしないことを教えてくれた守り神に感謝します。
二、プラスはマイナスに、マイナスはプラスに
次に大きな問題を抱えたのは、一九七三年のオイルショックでした。石油が四倍に値上がりし、一九七三年十月、第四次中東戦争をきっかけに石油危機が世界を襲いました。石油価格が二ヶ月で約四倍に値上がりし、わが国の経済も大きな影響を受け、「狂乱物価」を経験することになりました。トイレットペーパー買いだめ騒動や、石油不足でガソリンスタンドも休業になりました。特に日本経済は大きな衝撃を受け、戦後高度経済成長が終焉しました。
この頃、リミットは地場の作業服生地メーカーと懇意になり生地も優先的に供給していただき、自分の運命も幸運が訪れたと大変喜んでいました。生地が優先的に供給してもらえるので、生地在庫も増やしました。その喜びも束の間、次に起きた石油の暴落で生地価格も暴落しました。在庫の生地が暴落して大損害となったのです。
幸運が一転して最悪の事態になったのです。売れば売るほど赤字が増えます。手形を落とす資金が不足し、地獄攻めの状態になりました。最後は銀行に不渡りを出しますと申し出ました。その時、当時の支店長が「有木家を潰すことはできない」と言われました。リミットではなく、有木家と言われました。そして支店長代理がリミット担当者となり、打開策の策定が始まりました。支払手形の九割は地場の生地メーカーでした。
リミットと生地メーカーは同じ取引銀行でしたので話し合いをし、その結果債権放棄という方向に結論が出かかりました。私は債権の放棄をお願いするのではなく、長期で債権の全額支払いを約束しました。これは苦しい道の選択でした。これがリミットの哲学です。道が二つあるならば、苦しい方の道を選ぶと決めたのです。この後始末で十年間苦労しました。この時期にリミットとは反対に、それまで信用不安で生地を売って貰えなかった会社が値下がりした生地を買って業績を伸ばしました。リミットが後始末に追われていた十年間で、その会社は資産家になりました。マイナスがプラスになったのです。その時、プラスと思ったことがマイナスになり、マイナスだと思ったことがプラスになる、このことを知るために大きな授業料を払いました。
三、失敗と貴重な体験に感謝
人生は誰にでも三回大きなチャンスが訪れると言われています。戦後、オイルショック・平成のバブル崩壊・そしてこの度のデフレの価格破壊。大きな転換期を三回与えられています。すでに述べたように私は二回とも失敗しています。一回目のオイルショック、二回目のバブル崩壊後の撤退と再構築です。しかし売り上げ半減したとき手形支払はゼロになりました。在庫を半減したその資金を借入金返済にせず、現金支払にしたのです。これなら売上半減で利益ゼロでも手形ゼロにすることができます。手形ゼロになってから借入金返済を始めました。一回目のオイルショックでの銀行への不渡りの申し入れが生かされています。
肺結核は自分が何十年でも努力すれば、自分で道を拓くことができます。しかし手形不渡りは社長自ら完全に白旗を掲げて居るのですから、自分で助かる方法がありません。自分以外の力に助けられないと道が拓けません。支店長が有木家を潰すことはできないと言われたことは、有木家の先祖が人に喜ばれる徳の種まきをしていたのだと思います。親が子供に何を残すか。この様な徳という無形財産を残す方法もあるのです。手形ゼロに向かわせた守り神に感謝するとともに多くの貴重な体験をさせてくれたことにも感謝したいと思います。
二〇〇七年三月二十五日
笑顔着
リミット株式会社
代表取締役 有 木 伸 宏
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